隣人とは

あるまち/に暮らし、と関わり、を通り過ぎ、が想う

ひとりひとりの言葉に耳をすまし

共振の奇跡を夢見るアートプログラムです


はじめに

2020年6月13日

uni 代表 阿部健一

 

「隣人」という名の新しいプログラムを始めます。

 

しばらくの間、uniはまちに根ざした作品づくりを行ってきました。

過去形ではありません。ちょいとそこまでプロジェクトではいまも練馬区高松を舞台に新作の準備を進めています。わたしたちは地域でつくることの最中にこれまでも現在も身を置いています。

 

けれどしばしば、まちは失われたものとして語られます。地域が社会であった頃、まちは人でした。いままちを見たとき、そこに人は見えるでしょうか。千、万の住民票をもつ人々が。

 

まちではたくさんの人と会うことができます。けれどすれ違う人も、レストランで隣に座った人も、ドラッグストアのレジ列の前後の人のこともわたしは知りません。個人主義とか無縁社会と反射的に嘆くことを社会学の巨人たちは許しません。都市と「ひとり」は表裏一体だということは100年前から言われています。そしてそれは懸念と希望の両方を持って語られていたのです。

東京。

静寂と身軽さを手にしたこのまちの是非の彼岸は、一人一人の中にしかない。

 

でも、隣人はいるのです。

どんな場所でも、どんな人にも。だから「いる」ということから始めます。そのためこのプログラムでは「個人」に軸足を置きます。どこで聞いたのか覚えていない「温度は境界を超える」ということば。顔も見えない、名も知らない、とあるまちの隣人の温度がかすかに伝わるものや仕組みを、複数のアプローチで、ゆっくりと探究していきます。

 

とあるまち、とは江古田のこと。

江古田市場が閉場して5年と半年。

 

ここでまず、下記のプログラムが動き始めます。



season 0

「隣衆百景りんじゅひゃっけい」は、江古田のまちに住む、関わる、通り過ぎる人々とともにつむいでいくまちなか連句*。

 

*連句とは、五七五の句に別の人間が七七をつけ、その七七にまた別の人間が五七五をつけ・・・と、複数の人たちが集まって長い句を連ねていく日本の詩歌のひとつのかたちです。俳句も川柳もこうした文化の中から生まれてきたと言われています。

 

連句のイメージ:例

 

前の句のことばから連想したイメージや思い出をことばにしたり、意外なことばを投げ込んで流れを変えてみたり。

ひとといっしょにことばを膨らまし、浮かぶ景色を転がしていく楽しさが連句の面白さだと考えています。

 

「句」と聞くと敷居の高い縁のない世界のように感じるかもしれませんが、「こうでなければならない」というルールや作法を、少なくともuniでは採用しません。

人それぞれ好きな食べ物や得意料理・不得意料理があるのと同じように、人それぞれの句があるはずです。

上等なフルコースだけが料理ではありません。鍋でも、お漬物でも、カップ麺でも、あなたのとっておきを重ねていくツールとして、連句を用いていきたいと考えています。

 

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連句のかたちを借りつつもどこか一箇所に集まることはせず、uniが人々を訪ね歩くメッセンジャーとなることで、まちの人たちと句を連ねていきます。

 

 

◆3つのコンセプト: 

1.uniから人へ、人から人へ

紹介、紹介、紹介で編み物のように句をつむぐ

見知らぬ人が紙面でのみ出会う

 

2.このまちの「風景」を読む

句はスナップショット

十七音あるいは十四音から浮かび上がる見知らぬ我がまち

 

3.一部も作品、全部も作品

「ひとり」でもあり「ひとびと」でもある

 

 

昔の人々は景色から句を読み、句は別の句や屏風絵などを生みだしました。

「隣人」でも、連句という幹から日の光の差す方へ、さまざまな枝を広げていきます。

 

試行フェーズのシーズン0ではまず、

旧知の人々を訪ね、小さく句を編みます。

6年前「ナイス・エイジ」でお世話になったひと。その後に出会ったひと。

(もちろん感染拡大に最大限配慮いたします)

 

シーズン0、完成次第お披露目。ご期待ください。

 

季節がいくつも巡るうち、きっとあなたのもとにも伺います。

それまでどうかお達者で。

 

2020年6月13日